『大日本史料』 12編 40 元和七年是歳~元和七年雑載 p.33

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爲修學關東に趣き、廿七歳之時、當表ニ來れり、頃は慶長十九年、野母村, なれり、これはパブロの願望とは全く反したるところにして、當然彼が受くべしと總ての, を給ひしなり、その松樹に縛められてありし際、二名の我が修道士は往きてこれを見、彼, 正覺山大音寺元和三丁巳年建、, 〔長崎志〕, 瀕しつゝありしか、また決意と決斷とのうちに死に就きしかを物語れり、, ざりしのみならず、一言の返答をも爲さゞりき、彼を屈服せしむること能はずと悟るや、, を鼓舞せり、彼等はマグダレーナの日に長崎に到著せしが、時々の必要に應じ、イスパニ, 人々の信じたる殉教の好機を、彼より失はしむることなりき、されど、彼が得しは、これに, 過ぎたるものなりき、生命を捧げんとする彼の意圖に對し、我が主は彼の苦惱にも勝る報, 一イスパニア人が知事の上役に懇請せしを口實に、八日ののち、彼は釋放せらるゝことゝ, ア人平信者の服裝にて、堂々と市中を通過せりといふ、彼等は余に、如何にパブロが死に, 母子筑後瀬高ニ流落し、九歳の時、正覺山來仰寺證譽上人を頼み、出家を遂、十四歳之時、, 當寺開基傳譽上人は、安部家之末葉、父を安部八郎と云、兵亂之頃討死有之、嫡子小太郎, 藏徳寺城, 境内二萬三千六百三十坪伊良林郷之内, 元和七年是歳, 五寺院開創之部上, 淨土宗京都智恩院末寺, 長崎ゟ, 七里、, 開基傳譽關, 徹, 長崎ニ抵ル, 三三

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  • 五寺院開創之部上
  • 淨土宗京都智恩院末寺
  • 長崎ゟ
  • 七里、

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  • 開基傳譽關
  • 長崎ニ抵ル

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  • 三三

注記 (25)

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