『維新史』 維新史 1 p.117

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であつた。先づ其の前期時代より述べる。, 於いても幾多の功績を殘したを注目すべきである。先づ第一に擧ぐべきは、近, 古以來の國文を蒐集せる「扶桑拾葉集」(延寶六年正月成)の編纂である。此の事、當, 抑水戸藩は、慶長十四年十二月徳川家康の第十一子頼房, た。諡して義公といふ。, たのを以て創始とする。光圀は頼房の第三子、寛永五年六月十日に生れ、六歳に, 時後西上皇の叡聞に達して此の題名を賜はり、敕撰に準ぜられて、延寶八年朝廷, して早くも繼嗣となつたが、正保二年十八歳の時、「史記」の伯夷傳を讀んで其の高, に進獻したものであつた。第二に擧ぐべきは、僧契沖に資を給して「萬葉代匠記」, 義に感じ、後人を感激せしめるものは史筆を措いて他に求められぬと考へ、是に, 光圀の最大功績は「大日本史」の編纂にあることは後に詳述すべく、修史以外に, 修史に志すに至つた。寛文元年八月十九日三十四歳で襲封し、元祿三年十月十, 四日致仕して、兄頼重の子綱條に家を讓り、同十三年十二月六日七十三歳で薨じ, が水戸に封ぜられ, 以て一世を風靡した時が後期である。一は學の創始期であり、他は紹述大成期, 威, 公, 扶桑拾葉, 徳川光圀, 類典の編, 集萬葉代, 匠記禮儀, 纂, 第二章尊王思想の發達第三節水戸學の大義名分論, 一一七

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  • 扶桑拾葉
  • 徳川光圀
  • 類典の編
  • 集萬葉代
  • 匠記禮儀

  • 第二章尊王思想の發達第三節水戸學の大義名分論

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  • 一一七

注記 (25)

  • 1723,569,62,1206であつた。先づ其の前期時代より述べる。
  • 696,571,67,2279於いても幾多の功績を殘したを注目すべきである。先づ第一に擧ぐべきは、近
  • 584,579,67,2274古以來の國文を蒐集せる「扶桑拾葉集」(延寶六年正月成)の編纂である。此の事、當
  • 1605,633,61,1607抑水戸藩は、慶長十四年十二月徳川家康の第十一子頼房
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  • 1370,575,64,2272して早くも繼嗣となつたが、正保二年十八歳の時、「史記」の伯夷傳を讀んで其の高
  • 362,581,70,2293に進獻したものであつた。第二に擧ぐべきは、僧契沖に資を給して「萬葉代匠記」
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