『日本関係海外史料』 オランダ商館長日記 8 訳3上1637年08月-1638年06月 p.117

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わち、數年前、陛下の命令により、アリマの地方が現在の領士, て、貴族〓及び市民〓の住居總べてに火を著け、數人の貴人たちを殺して、殘る貴人たちを城, 地方の住民すなわ, は彼の兵士たちや貴人たちを總べて、もしくは殆んど伴なうこ, れ以上は、記録に値することは何も起らなかった。, のなかへと追い込んだ。そのため、周邊諸國の領主たちは總べて、そして當地, の地へ移されたとき、彼, 平戸においても同樣、戰爭のための準備をした。そして、近隣の、同地に境を接する地方の街, ち農民たちの大部分が叛亂を起し、彼等の上長たちに對して戰を仕掛け、手に手に武器を執っ, ていない。農民たちのこの混亂すなわち蜂起は、一般の説に從えば次の事情から起った。すな, 大氣、南の風。本日當地に次のような報せが來た。アリフ, 同月十六日良い天氣、北の風。何も特別のことは起らなかった。, に殘留させなくてはならなかった。その反對に、繼承者すなわち現在の, に、そしてまた別の地(, か當時そこに居住していた領主, 道や通路は占據されたが、宮廷からの命令が待たれているだけで、まだ敵對行動は何も起され, に下賜されて、〔後者が〕そ, 快晴の素晴らしい, となく、全員同地, 同月十七日一, の父, ゆる有馬日記は、本條以下の抄録であり、間々底本の逸文を傳えている一, ○出島で後年作成され天馬異聞の底本とされた新しい寫本であるj本、いわ, 嶋の南端を占める。, ○日向國, の城主、寛永七(一六三〇)年病沒, 六一六)年以降日野江ついで嶋原四萬石, 延岡, 重政の築いた居城, 直純, 〓有馬左衛門佐直純。キリンタン大名晴信の子、慶長十九年(一六一四)延岡へ國, ○嶋原城。松倉豐後守, 政。元和二(一, 替、その後有馬の故地は元和二年まで長崎奉行長谷川左兵衛の管下に置かれた。, ○松倉豐後守重, ○松倉長門守勝, ○有馬。肥前國嶋原半, 家。ナガト殿, ○有馬, (weghen ende passagien), 蜂起の理由, 西國諸大名, 土著す, 直純の舊臣, 蜂起す, 松倉重政入, 有馬の農民, 待つ, 嶋原城孤立, 部の際有馬, とり暮命を, 臨戰態勢を, 椒の計量, す, 重政土着武, 一六三七年十二月, 一一六, 一六三七年十二月

割注

  • ゆる有馬日記は、本條以下の抄録であり、間々底本の逸文を傳えている一
  • ○出島で後年作成され天馬異聞の底本とされた新しい寫本であるj本、いわ
  • 嶋の南端を占める。
  • ○日向國
  • の城主、寛永七(一六三〇)年病沒
  • 六一六)年以降日野江ついで嶋原四萬石
  • 延岡
  • 重政の築いた居城
  • 直純
  • 〓有馬左衛門佐直純。キリンタン大名晴信の子、慶長十九年(一六一四)延岡へ國
  • ○嶋原城。松倉豐後守
  • 政。元和二(一
  • 替、その後有馬の故地は元和二年まで長崎奉行長谷川左兵衛の管下に置かれた。
  • ○松倉豐後守重
  • ○松倉長門守勝
  • ○有馬。肥前國嶋原半
  • 家。ナガト殿
  • ○有馬
  • (weghen ende passagien)

頭注

  • 蜂起の理由
  • 西國諸大名
  • 土著す
  • 直純の舊臣
  • 蜂起す
  • 松倉重政入
  • 有馬の農民
  • 待つ
  • 嶋原城孤立
  • 部の際有馬
  • とり暮命を
  • 臨戰態勢を
  • 椒の計量
  • 重政土着武

  • 一六三七年十二月

ノンブル

  • 一一六
  • 一六三七年十二月

注記 (58)

  • 733,613,59,1543わち、數年前、陛下の命令により、アリマの地方が現在の領士
  • 1251,593,64,2301て、貴族〓及び市民〓の住居總べてに火を著け、數人の貴人たちを殺して、殘る貴人たちを城
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  • 415,1336,56,1545は彼の兵士たちや貴人たちを總べて、もしくは殆んど伴なうこ
  • 1776,618,59,1204れ以上は、記録に値することは何も起らなかった。
  • 1144,1044,63,1841のなかへと追い込んだ。そのため、周邊諸國の領主たちは總べて、そして當地
  • 419,609,60,600の地へ移されたとき、彼
  • 1039,613,62,2277平戸においても同樣、戰爭のための準備をした。そして、近隣の、同地に境を接する地方の街
  • 1355,607,63,2276ち農民たちの大部分が叛亂を起し、彼等の上長たちに對して戰を仕掛け、手に手に武器を執っ
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