『日本関係海外史料』 オランダ商館長日記 21 訳8下1644年06月-1644年10月 p.167

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たのですが)下級商務員の資格は得られませんでした。同年十二月二十七日、スヒップ船二ム, 与で、閣下方に奉仕するよう任じられました。しかし、友人の欠如のため、(それを望んでい, 一六二九年、私は、アムステルダム・カーメルより、商務助手として月額二〇グルデンの給, 着したのは、(旅の途上の度重なる危険な不運によって)ようやく一六三一年四月二十七日で, によって、商館長として日本へ赴任し、同地へ到着の上は、江戸で日本, 書記として使用されました。翌一六三三年までその仕事を続けたあと、前述のプレシデントと, ウエーへン, に一六三二年七月まで雇用され、それから、ハンス・プットマンス長官, した。船の経費帳簿を閉じた後、上陸を命じられ、給与局に於ける筆写係、守備隊の日誌係等, により同船から引き抜かれ、同地商館の, ケバッケル閣下, 督ブラウともに日本へ出発しました。閣下は、総督へンリック・ブラウエル閣下, 号で、テッセルから東インドへ出航し、バタフィアの前面の停泊地に到, =オワンてヤハト船フローテンブルク号でタイオワンへ航行し、同地でプレシデント・ニコラス・クー, の旗下に帳簿係とし, 年一旦帰国し、東インド会社理事となる。一六三二~三三年東インド総督。帰国後一六四一年西インド会社の総督と, 六〇六年頃より東インド各地に勤務、一六一二年平戸に来着、同年八月より一六一四年八月まで商館長。〓六一五, 二月まで日本商館長。その間の日記は本書一~三参看。一六三九, ○ネイメーへ, 年バタフィアへ戻り、同年の帰国船団の司令官として帰国した。, ○ヘンドリック・ブラウエ, 六二九年から一六三六年, ルhendrick brouwer, ミツデルブルフ生まれ, ンnijimegen(, ○元日本商館長。デルフト生まれ。一六二七年にはバタフィアの法務委員会の書記を務めており、, その後一六二九年タイオワンへ移り、同地で上級商務員に昇進。一六三三年九月から一六三九年, スペイン軍と交戦中病没, なり、一六四三年、チリで, 五月までフォルモサ長官を務め、一六三三年からは東インド評議会参事も兼ねた。一六三六, 年にはタイオワンを離れ、バタフィアから同年の帰国船団の司令官として母国へ戻った。, 六〇六年頃より東インド各地に勤務、一六一二年平戸に来着、同年八月より一六一四年八月まで商館長。一六一五, 年一旦帰国し、東インド会社理事となる。一六三二~三三年東インド総督。帰国後一六四一年西インド会社の総督と, して東イン, 勤務, ケルに従い, クーケバツ, 商務助手と, エル, マンス, 平戸へ, ドへ, 長官プット, 勤務, バタフィア, 総督ブラウ, 附録十, 六九

割注

  • 二月まで日本商館長。その間の日記は本書一~三参看。一六三九
  • ○ネイメーへ
  • 年バタフィアへ戻り、同年の帰国船団の司令官として帰国した。
  • ○ヘンドリック・ブラウエ
  • 六二九年から一六三六年
  • ルhendrick brouwer
  • ミツデルブルフ生まれ
  • ンnijimegen(
  • ○元日本商館長。デルフト生まれ。一六二七年にはバタフィアの法務委員会の書記を務めており、
  • その後一六二九年タイオワンへ移り、同地で上級商務員に昇進。一六三三年九月から一六三九年
  • スペイン軍と交戦中病没
  • なり、一六四三年、チリで
  • 五月までフォルモサ長官を務め、一六三三年からは東インド評議会参事も兼ねた。一六三六
  • 年にはタイオワンを離れ、バタフィアから同年の帰国船団の司令官として母国へ戻った。
  • 六〇六年頃より東インド各地に勤務、一六一二年平戸に来着、同年八月より一六一四年八月まで商館長。一六一五
  • 年一旦帰国し、東インド会社理事となる。一六三二~三三年東インド総督。帰国後一六四一年西インド会社の総督と

頭注

  • して東イン
  • 勤務
  • ケルに従い
  • クーケバツ
  • 商務助手と
  • エル
  • マンス
  • 平戸へ
  • ドへ
  • 長官プット
  • バタフィア
  • 総督ブラウ

  • 附録十

ノンブル

  • 六九

注記 (48)

  • 1597,566,59,2312たのですが)下級商務員の資格は得られませんでした。同年十二月二十七日、スヒップ船二ム
  • 1701,567,58,2307与で、閣下方に奉仕するよう任じられました。しかし、友人の欠如のため、(それを望んでい
  • 1803,643,60,2230一六二九年、私は、アムステルダム・カーメルより、商務助手として月額二〇グルデンの給
  • 1390,565,59,2319着したのは、(旅の途上の度重なる危険な不運によって)ようやく一六三一年四月二十七日で
  • 358,1120,57,1770によって、商館長として日本へ赴任し、同地へ到着の上は、江戸で日本
  • 664,572,58,2307書記として使用されました。翌一六三三年までその仕事を続けたあと、前述のプレシデントと
  • 1496,571,46,263ウエーへン
  • 1182,540,57,1797に一六三二年七月まで雇用され、それから、ハンス・プットマンス長官
  • 1286,568,61,2320した。船の経費帳簿を閉じた後、上陸を命じられ、給与局に於ける筆写係、守備隊の日誌係等
  • 775,1873,53,1009により同船から引き抜かれ、同地商館の
  • 872,572,48,409ケバッケル閣下
  • 561,360,60,1983督ブラウともに日本へ出発しました。閣下は、総督へンリック・ブラウエル閣下
  • 1497,1108,55,1776号で、テッセルから東インドへ出航し、バタフィアの前面の停泊地に到
  • 976,380,57,2507=オワンてヤハト船フローテンブルク号でタイオワンへ航行し、同地でプレシデント・ニコラス・クー
  • 1088,2356,50,528の旗下に帳簿係とし
  • 441,583,51,2297年一旦帰国し、東インド会社理事となる。一六三二~三三年東インド総督。帰国後一六四一年西インド会社の総督と
  • 486,622,53,2228六〇六年頃より東インド各地に勤務、一六一二年平戸に来着、同年八月より一六一四年八月まで商館長。〓六一五
  • 797,583,45,1263二月まで日本商館長。その間の日記は本書一~三参看。一六三九
  • 1525,860,39,237○ネイメーへ
  • 753,571,46,1244年バタフィアへ戻り、同年の帰国船団の司令官として帰国した。
  • 600,2344,40,510○ヘンドリック・ブラウエ
  • 1176,2386,42,479六二九年から一六三六年
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  • 859,986,45,1887その後一六二九年タイオワンへ移り、同地で上級商務員に昇進。一六三三年九月から一六三九年
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  • 1245,310,41,85勤務
  • 400,320,40,204ケルに従い
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