Loading…
要素
割注頭注ノンブル
OCR テキスト
たのですが)下級商務員の資格は得られませんでした。同年十二月二十七日、スヒップ船二ム, 与で、閣下方に奉仕するよう任じられました。しかし、友人の欠如のため、(それを望んでい, 一六二九年、私は、アムステルダム・カーメルより、商務助手として月額二〇グルデンの給, 着したのは、(旅の途上の度重なる危険な不運によって)ようやく一六三一年四月二十七日で, によって、商館長として日本へ赴任し、同地へ到着の上は、江戸で日本, 書記として使用されました。翌一六三三年までその仕事を続けたあと、前述のプレシデントと, ウエーへン, に一六三二年七月まで雇用され、それから、ハンス・プットマンス長官, した。船の経費帳簿を閉じた後、上陸を命じられ、給与局に於ける筆写係、守備隊の日誌係等, により同船から引き抜かれ、同地商館の, ケバッケル閣下, 督ブラウともに日本へ出発しました。閣下は、総督へンリック・ブラウエル閣下, 号で、テッセルから東インドへ出航し、バタフィアの前面の停泊地に到, =オワンてヤハト船フローテンブルク号でタイオワンへ航行し、同地でプレシデント・ニコラス・クー, の旗下に帳簿係とし, 年一旦帰国し、東インド会社理事となる。一六三二~三三年東インド総督。帰国後一六四一年西インド会社の総督と, 六〇六年頃より東インド各地に勤務、一六一二年平戸に来着、同年八月より一六一四年八月まで商館長。〓六一五, 二月まで日本商館長。その間の日記は本書一~三参看。一六三九, ○ネイメーへ, 年バタフィアへ戻り、同年の帰国船団の司令官として帰国した。, ○ヘンドリック・ブラウエ, 六二九年から一六三六年, ルhendrick brouwer, ミツデルブルフ生まれ, ンnijimegen(, ○元日本商館長。デルフト生まれ。一六二七年にはバタフィアの法務委員会の書記を務めており、, その後一六二九年タイオワンへ移り、同地で上級商務員に昇進。一六三三年九月から一六三九年, スペイン軍と交戦中病没, なり、一六四三年、チリで, 五月までフォルモサ長官を務め、一六三三年からは東インド評議会参事も兼ねた。一六三六, 年にはタイオワンを離れ、バタフィアから同年の帰国船団の司令官として母国へ戻った。, 六〇六年頃より東インド各地に勤務、一六一二年平戸に来着、同年八月より一六一四年八月まで商館長。一六一五, 年一旦帰国し、東インド会社理事となる。一六三二~三三年東インド総督。帰国後一六四一年西インド会社の総督と, して東イン, 勤務, ケルに従い, クーケバツ, 商務助手と, エル, マンス, 平戸へ, ドへ, 長官プット, 勤務, バタフィア, 総督ブラウ, 附録十, 六九
割注
- 二月まで日本商館長。その間の日記は本書一~三参看。一六三九
- ○ネイメーへ
- 年バタフィアへ戻り、同年の帰国船団の司令官として帰国した。
- ○ヘンドリック・ブラウエ
- 六二九年から一六三六年
- ルhendrick brouwer
- ミツデルブルフ生まれ
- ンnijimegen(
- ○元日本商館長。デルフト生まれ。一六二七年にはバタフィアの法務委員会の書記を務めており、
- その後一六二九年タイオワンへ移り、同地で上級商務員に昇進。一六三三年九月から一六三九年
- スペイン軍と交戦中病没
- なり、一六四三年、チリで
- 五月までフォルモサ長官を務め、一六三三年からは東インド評議会参事も兼ねた。一六三六
- 年にはタイオワンを離れ、バタフィアから同年の帰国船団の司令官として母国へ戻った。
- 六〇六年頃より東インド各地に勤務、一六一二年平戸に来着、同年八月より一六一四年八月まで商館長。一六一五
- 年一旦帰国し、東インド会社理事となる。一六三二~三三年東インド総督。帰国後一六四一年西インド会社の総督と
頭注
- して東イン
- 勤務
- ケルに従い
- クーケバツ
- 商務助手と
- エル
- マンス
- 平戸へ
- ドへ
- 長官プット
- バタフィア
- 総督ブラウ
柱
- 附録十
ノンブル
- 六九
注記 (48)
- 1597,566,59,2312たのですが)下級商務員の資格は得られませんでした。同年十二月二十七日、スヒップ船二ム
- 1701,567,58,2307与で、閣下方に奉仕するよう任じられました。しかし、友人の欠如のため、(それを望んでい
- 1803,643,60,2230一六二九年、私は、アムステルダム・カーメルより、商務助手として月額二〇グルデンの給
- 1390,565,59,2319着したのは、(旅の途上の度重なる危険な不運によって)ようやく一六三一年四月二十七日で
- 358,1120,57,1770によって、商館長として日本へ赴任し、同地へ到着の上は、江戸で日本
- 664,572,58,2307書記として使用されました。翌一六三三年までその仕事を続けたあと、前述のプレシデントと
- 1496,571,46,263ウエーへン
- 1182,540,57,1797に一六三二年七月まで雇用され、それから、ハンス・プットマンス長官
- 1286,568,61,2320した。船の経費帳簿を閉じた後、上陸を命じられ、給与局に於ける筆写係、守備隊の日誌係等
- 775,1873,53,1009により同船から引き抜かれ、同地商館の
- 872,572,48,409ケバッケル閣下
- 561,360,60,1983督ブラウともに日本へ出発しました。閣下は、総督へンリック・ブラウエル閣下
- 1497,1108,55,1776号で、テッセルから東インドへ出航し、バタフィアの前面の停泊地に到
- 976,380,57,2507=オワンてヤハト船フローテンブルク号でタイオワンへ航行し、同地でプレシデント・ニコラス・クー
- 1088,2356,50,528の旗下に帳簿係とし
- 441,583,51,2297年一旦帰国し、東インド会社理事となる。一六三二~三三年東インド総督。帰国後一六四一年西インド会社の総督と
- 486,622,53,2228六〇六年頃より東インド各地に勤務、一六一二年平戸に来着、同年八月より一六一四年八月まで商館長。〓六一五
- 797,583,45,1263二月まで日本商館長。その間の日記は本書一~三参看。一六三九
- 1525,860,39,237○ネイメーへ
- 753,571,46,1244年バタフィアへ戻り、同年の帰国船団の司令官として帰国した。
- 600,2344,40,510○ヘンドリック・ブラウエ
- 1176,2386,42,479六二九年から一六三六年
- 560,2345,36,365ルhendrick brouwer
- 1222,2385,39,443ミツデルブルフ生まれ
- 1477,855,43,221ンnijimegen(
- 904,988,47,1889○元日本商館長。デルフト生まれ。一六二七年にはバタフィアの法務委員会の書記を務めており、
- 859,986,45,1887その後一六二九年タイオワンへ移り、同地で上級商務員に昇進。一六三三年九月から一六三九年
- 335,583,42,477スペイン軍と交戦中病没
- 379,580,41,512なり、一六四三年、チリで
- 1108,570,48,1752五月までフォルモサ長官を務め、一六三三年からは東インド評議会参事も兼ねた。一六三六
- 1063,571,50,1760年にはタイオワンを離れ、バタフィアから同年の帰国船団の司令官として母国へ戻った。
- 488,615,51,2230六〇六年頃より東インド各地に勤務、一六一二年平戸に来着、同年八月より一六一四年八月まで商館長。一六一五
- 442,579,50,2292年一旦帰国し、東インド会社理事となる。一六三二~三三年東インド総督。帰国後一六四一年西インド会社の総督と
- 1768,311,36,206して東イン
- 1245,310,41,85勤務
- 400,320,40,204ケルに従い
- 447,320,35,203クーケバツ
- 1811,310,37,209商務助手と
- 521,323,34,71エル
- 1144,318,35,116マンス
- 355,316,39,114平戸へ
- 1721,309,43,72ドへ
- 1187,309,37,217長官プット
- 933,310,39,86勤務
- 1295,315,33,200バタフィア
- 564,313,40,218総督ブラウ
- 230,787,41,171附録十
- 239,2574,39,78六九
類似アイテム

『日本関係海外史料』 オランダ商館長日記 20 訳8上1643年09月-1644年06月 p.176

『日本関係海外史料』 オランダ商館長日記 20 訳8上1643年09月-1644年06月 p.155

『日本関係海外史料』 オランダ商館長日記 23 訳9 1644年10月-1646年09月 p.174

『日本関係海外史料』 オランダ商館長日記 11 訳4上1639年02月-1639年閏11月 p.138

『日本関係海外史料』 オランダ商館長日記 9 訳3下1638年08月-1639年01月 p.5

『日本関係海外史料』 オランダ商館長日記 23 訳9 1644年10月-1646年09月 p.275

『日本関係海外史料』 オランダ商館長日記 23 訳9 1644年10月-1646年09月 p.288

『日本関係海外史料』 オランダ商館長日記 11 訳4上1639年02月-1639年閏11月 p.5